- 由緒
当社は源頼義父子天喜・康平(1056~62、平安)の東奥征伐に際し、野州平野八幡に戦捷を祈り、更にこの地に到り弓矢を神璽に社殿東宮・西宮を建立奉祀したことに創る。くだって文治5年源頼朝、藤原秀衡討伐下向に随従した熊谷直実の末孫直家に気仙沼七ケ村を与えた。その子平三直宗この地に在り、ことのほか当社を尊崇し、建暦元年(1211鎌倉)社殿を造営す。葛西大崎の合戦にあたり、一方の大将、熊谷直行戦功を祈り。応永7年(1400室町)9月新殿を造建。陸奥守葛西満信米15石、銭30貫文を献じ、祭礼には流鏑馬を行った。爾後これが恒例となる。葛西氏没落後、慶長6年10月社殿焼失したが、熊谷直長これを再建、又、仙台藩主2代忠宗の代、気仙沼郷総鎮守に指定され、5代獅山吉村も亨保8年社参して黄金を寄進するなど武門の崇敬が篤かった。明治5年村社格に列せられ明治39年4月勅令第96号によって神饌幣帛料供進など明治40年から指定され、例祭・祈年祭・新嘗祭を大祭と定められてから村当局から供進使が参向される。明治3年許可を得て東宮・西宮2社を1社に合祀する。明治41年愛宕・須賀・山神、3社合祀する。現社殿は大正14年3月着工、翌15年8月竣工(8月13日遷座祭)。総工事費1万余円総て氏子、町村崇敬者の寄進によるもの。名物粟餅は亨保14年8月に伊達獅山公が再度参拝されたその14日御月見の儀を仰せられたその時粟餅を差上げたこと、ことのほか御ほめになり御月見御弁当とするように仰せられ、面目この上もなく、餅を青豆の粉にまぶし差上げたところ御機嫌うるわしく御月見をされ、その以来粟餅を参拝記念として8月14日宵祭の参拝のおみやげして今日まで伝ったもの云う。
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