- 由緒
景行天皇41年(西暦111年)8月6日、日本尊命の勧請と伝えられている。文徳天皇仁寿元年(西暦851年)正月正六位に叙せられ、清和天皇の貞観5年(西暦863年)10月29日戊子勲十等正六位上より従五位下を奉授、延喜の制小社に班した。往古の神領は田沢一村を寄せられたが、天正年中兵乱相継ぎ廃絶した。慶長7年に亘理領主伊達成実が社殿を造営し、更に祭粢料として一貫二百六十六文、また神主領八百八十文を寄進、爾来領主累代の崇敬篤く、寛政5年には十二石六斗九升の寄進もあった。安福河伯神社名は「延喜式神名帳」にあるが、「貞観紀」には安福麻水神、「封内封土記」には阿部隈明神社となり、明治12年6月郷社に列せられ、同40年3月幣帛供進社に指定せられた。更に明治41年4月に宮原の水神社、同42年5月に森房早川神社を合祀した。本殿は前記の通り亘理領主の造営したもので、流造で結構壮麗であり殊に彫刻に優れた技術が認められる。社の祭典の神幸はもと、田沢より南の亘理町に至り東折して荒浜港へ御着、汐の行事を行い更に西して本社に還る例であったが、今は地域内のみ渡御することとなり、6月30日の夏越祭の茅輪に火を点じ夕方から深夜にかけてこれを潜り悪疫消除を祈念した神事も廃止するに至った。また、田植使舞報告祭は6月20日前後に早苗を献じ五穀の豊饒を祈る風があり、氏子の農家は裏作をしないという禁忌がある。
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