- 由緒
本社は宝永4年火災に罹り社殿並びに社蔵の古記録を失ったので由緒を詳にし得ないが、元正天皇の養老5年諸国に国分寺を建立せられし頃、別当寺磐若寺と共に末松山に勧請したといわれる。又往古豊前国宇佐郡から奉遷した奥羽の古社で、延暦年中坂上田村麿東夷征伐の時数多の軍兵を率いて此地に逗留し建立したともいい、又本社は元松島に在り、類聚国史載する所の宮城郡松島八幡是也。田村将軍多賀城に在る日、之を末の松山に移し建て、以て祭祀に便すともいわれる。里俗末松山八幡宮、興の井八幡等と称した。社傍に田村麿軍兵を屯集せし所と伝える地を方八丁といい、頼義父子賊魁を征するや田村麿の例を以て兵を方八丁に置き此の社を祈って軍功あり、建保年中将軍頼朝其の地を平右馬介(留守伊澤氏の家人八幡介)に与う。右馬介城を末松山に築くにあたり社を今の地に遷した。当時祠田二千石子院二十四、祠官三十人といわれる。伊澤氏領土を除かれ社は遂に荒廃したが、羽州天童城主甲斐守頼澄伊達政宗の臣となり、慶長年中八幡の地に封ぜられるに及んで、伊達家の尊崇極めて篤く、貞享元年6月藩主綱村再造し祠殿を旧に復した。宝永4年の火災に罹った。藩主吉村の社参のことあり今に奉納の短冊並びに鉄砲玉を蔵している。祠側に騎馬場あり、伝えて千熊の騎馬をしたところという。千熊は田村将軍の子である。現今の馬場は元例祭の折、流鏑馬をしたところであったが今は行わない。郷社に列せられた年月は明でない。明治43年3月供進社に指定、後に二社を合祀している。
- 地図
- 動画